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カスタマーレビュー
おすすめ度:
あれ?終わり?
(2008-11-22)
読み終わって、「え?おしまい?」という感じ。
いつ事件は起こるんだろう、何が起こるんだろう、と思いながら読んでるうちに終わってしまった。
起承転結、さらにどんでんがえし、みたいな横山秀夫や東野圭吾が好きな自分が読んではいけない類の小説だったのだろう。
どこの本屋にも平積みになって、タイトルも大上段だったので期待してたんだけどな〜。
文章はうまいから最後まで読んじゃったけど。
魔王って誰のことってとこまで読者に委ねるのってどうなのよ。
面白さは感じませんでした
(2008-11-22)
裏表紙に「何気ない日常生活に流されることの危うさ」が綴られていると書かれており、確かにそのようなテーマが感じられるところもありますが、もし著者がそれをメインテーマに据えているのだとしたら描き方が非常に浅い。
それ以上にまるでどこかのウェブサイトを覗いているかのような政治的論議の浅さの方が悪目立ちしてしまっています。
ただ、その政治的論議に関してもメインテーマではないのは、「文庫あとがき」にも書いてある通り。
その「文庫あとがき」には、「この物語の中に出てくる政治的なことはテーマではなく、社会や政治の事柄がよく含まれていて、そこから滲んでくる不穏さや、切迫感や青臭さがとても好きだったので、自分の書くものにもそういう部分を含ませたかった」と書かれているのを見た時に、とあるお笑い芸人が、「社会問題をお笑いのネタとして扱っているだけで、何らかの政治的なメッセージを送っているつもりはない」と言っていたのを思い出しました。
このお笑い芸人に対しては、ある評論家は、「彼は真面目なことを語っているのではなく、真面目な態度で思ったことを好き勝手に述べているのだ」と話していましたが、私は同じようなものを伊坂氏とこの小説に感じました。
つまりこの小説で伊坂氏は、あくまで社会や政治の事柄は「ネタ」として、そこから自分の想像力を屈指して頭に思い描いた世界を好き勝手に描いただけなのだ、と。
ただ、この小説の場合、あらゆるメッセージ性を抜きに単に「エンターティメントとしてどうか」を見ても、話に全く引き込まれず、この後に続編『モダンタイムス』があり、そちらを書く前提でこの小説を仕上げた印象があるため、終わり方が非常に中途半端に感じました。
人間の「思い込み」の危うさを描いた小説
(2008-11-11)
人は、世の中の流れに流される者も逆らう者も、
その根拠があるにせよないにせよ、自ら「ある考え方」を
どこからか選んできて、その考え方を自分のものにしてしまい、
それをときには「信仰」して生きているのでしょう。
それが人の行動に影響を及ぼす事は言うまでもありません。
宗教、政治的観念、大小様々の思想、哲学、、、
これらすべて個人的な信仰の対象です。
そして、人はそれぞれ自分の信じた、選んだ、、、
「主観的な真理」をなにかしら持ち歩いて生きているのだと思います。
伊坂幸太郎さんの「魔王/呼吸」という一対の小説は、
超能力?による奇跡的な事柄や、政治的な問題を物語の前面に押し出しながらも、
人間心理の脆さ、危うさ、「信仰、思い込み」によるその恐ろしい一面を、
それこそ作家自身の超能力を駆使して登場人物に語らせ、行動させて表現しています。
その危うさは、対決(反動)せざるおえないという人間の本性と同様、
隠されていてなかなか見えないものです。
「魔王」とは、、、全体主義者や平和主義者や無関心な大衆
のように決して目に見える存在ではないのだと思います。
このレビューを書いているおれも、危うい思い込みやろうのひとりです(^^)
長い長い予告編を読んだような感じ
(2008-11-01)
「超能力」というテーマに惹かれて買いましたが、物語はヤマ場らしきものがなく終わってしまい、長い長い予告編を読んだような気持ちになりました。「自分の念じた言葉を他人が話す特殊能力」があれば、どのように自分をとりまく世界が変わるのか、その仮想世界を見せてくれると勝手に期待していたのですが・・・。ただその期待感がふくらんだのは、この小説に引き込まれていたからともいえますね。
あえて謎は謎のままで残し、次の展開の含みを残したまま終わるので、その後は各自で想像(創造)するというのが、この小説の楽しみ方でしょうか。
なお他のレビュアーの方も書いているとおり、政治的な議論の底が浅すぎて「もっと社会意識の高い人物を出してよ」と言いたくなりますが、それは主なテーマではないと「文庫あとがき」にありました。
人は言葉に縛られている
(2008-10-26)
超能力という要素が含まれているが、それはこの作品をノンフィクションからフィクションにするための手法に過ぎない。そんな気がした。
頭が良いの定義は難しい。人が知らないことを多く知っている人も頭が良いように見えるが、それは知識が豊富なだけだ。本当に頭が良い人は、何もないところから価値あるものを生み出せる人のことを指すのだろう。しかし、この知識がすさまじい量だったらどうだろう。生み出すまでもなく、ただ持って来れば十分に価値あるものに見えるかもしれない。つまり、通常は、情報を入手し、考察し、判断するというプロセスを経なければ行動できないのに、考察するというプロセスをアウトソーシングすることで、考察結果を入手し、判断するということでよしとする世界になりつつあるのではないだろうか。この結果として、人々は誰かの言葉を自分の考えであるかのように錯覚して行動することになる。
安藤は、考えろ、考えろ、マクガイバー、と言う。彼は、考え、行動することによって、世の中の流れを押しとどめようとするが、結局は濁流に飲み込まれてしまう。潤也は、濁流の外にあって、流れを変えようとする。そして犬養は、流れを作り出していた側だったはずなのに、おそらくは、いつの間にか自分も流されてしまっていることに気づいたのだろう。
彼らは自分の考えで行動し、発言しているはずだった。しかし、本当にそれは彼らの言葉だったのか。かつて存在した誰かの言葉だったのではないか。本当に彼らは考えて行動しているのか。そして自分は…
おそらくそこに魔王はいる。
おすすめ度:
あれ?終わり?
読み終わって、「え?おしまい?」という感じ。
いつ事件は起こるんだろう、何が起こるんだろう、と思いながら読んでるうちに終わってしまった。
起承転結、さらにどんでんがえし、みたいな横山秀夫や東野圭吾が好きな自分が読んではいけない類の小説だったのだろう。
どこの本屋にも平積みになって、タイトルも大上段だったので期待してたんだけどな〜。
文章はうまいから最後まで読んじゃったけど。
魔王って誰のことってとこまで読者に委ねるのってどうなのよ。
面白さは感じませんでした
裏表紙に「何気ない日常生活に流されることの危うさ」が綴られていると書かれており、確かにそのようなテーマが感じられるところもありますが、もし著者がそれをメインテーマに据えているのだとしたら描き方が非常に浅い。
それ以上にまるでどこかのウェブサイトを覗いているかのような政治的論議の浅さの方が悪目立ちしてしまっています。
ただ、その政治的論議に関してもメインテーマではないのは、「文庫あとがき」にも書いてある通り。
その「文庫あとがき」には、「この物語の中に出てくる政治的なことはテーマではなく、社会や政治の事柄がよく含まれていて、そこから滲んでくる不穏さや、切迫感や青臭さがとても好きだったので、自分の書くものにもそういう部分を含ませたかった」と書かれているのを見た時に、とあるお笑い芸人が、「社会問題をお笑いのネタとして扱っているだけで、何らかの政治的なメッセージを送っているつもりはない」と言っていたのを思い出しました。
このお笑い芸人に対しては、ある評論家は、「彼は真面目なことを語っているのではなく、真面目な態度で思ったことを好き勝手に述べているのだ」と話していましたが、私は同じようなものを伊坂氏とこの小説に感じました。
つまりこの小説で伊坂氏は、あくまで社会や政治の事柄は「ネタ」として、そこから自分の想像力を屈指して頭に思い描いた世界を好き勝手に描いただけなのだ、と。
ただ、この小説の場合、あらゆるメッセージ性を抜きに単に「エンターティメントとしてどうか」を見ても、話に全く引き込まれず、この後に続編『モダンタイムス』があり、そちらを書く前提でこの小説を仕上げた印象があるため、終わり方が非常に中途半端に感じました。
人間の「思い込み」の危うさを描いた小説
人は、世の中の流れに流される者も逆らう者も、
その根拠があるにせよないにせよ、自ら「ある考え方」を
どこからか選んできて、その考え方を自分のものにしてしまい、
それをときには「信仰」して生きているのでしょう。
それが人の行動に影響を及ぼす事は言うまでもありません。
宗教、政治的観念、大小様々の思想、哲学、、、
これらすべて個人的な信仰の対象です。
そして、人はそれぞれ自分の信じた、選んだ、、、
「主観的な真理」をなにかしら持ち歩いて生きているのだと思います。
伊坂幸太郎さんの「魔王/呼吸」という一対の小説は、
超能力?による奇跡的な事柄や、政治的な問題を物語の前面に押し出しながらも、
人間心理の脆さ、危うさ、「信仰、思い込み」によるその恐ろしい一面を、
それこそ作家自身の超能力を駆使して登場人物に語らせ、行動させて表現しています。
その危うさは、対決(反動)せざるおえないという人間の本性と同様、
隠されていてなかなか見えないものです。
「魔王」とは、、、全体主義者や平和主義者や無関心な大衆
のように決して目に見える存在ではないのだと思います。
このレビューを書いているおれも、危うい思い込みやろうのひとりです(^^)
長い長い予告編を読んだような感じ
「超能力」というテーマに惹かれて買いましたが、物語はヤマ場らしきものがなく終わってしまい、長い長い予告編を読んだような気持ちになりました。「自分の念じた言葉を他人が話す特殊能力」があれば、どのように自分をとりまく世界が変わるのか、その仮想世界を見せてくれると勝手に期待していたのですが・・・。ただその期待感がふくらんだのは、この小説に引き込まれていたからともいえますね。
あえて謎は謎のままで残し、次の展開の含みを残したまま終わるので、その後は各自で想像(創造)するというのが、この小説の楽しみ方でしょうか。
なお他のレビュアーの方も書いているとおり、政治的な議論の底が浅すぎて「もっと社会意識の高い人物を出してよ」と言いたくなりますが、それは主なテーマではないと「文庫あとがき」にありました。
人は言葉に縛られている
超能力という要素が含まれているが、それはこの作品をノンフィクションからフィクションにするための手法に過ぎない。そんな気がした。
頭が良いの定義は難しい。人が知らないことを多く知っている人も頭が良いように見えるが、それは知識が豊富なだけだ。本当に頭が良い人は、何もないところから価値あるものを生み出せる人のことを指すのだろう。しかし、この知識がすさまじい量だったらどうだろう。生み出すまでもなく、ただ持って来れば十分に価値あるものに見えるかもしれない。つまり、通常は、情報を入手し、考察し、判断するというプロセスを経なければ行動できないのに、考察するというプロセスをアウトソーシングすることで、考察結果を入手し、判断するということでよしとする世界になりつつあるのではないだろうか。この結果として、人々は誰かの言葉を自分の考えであるかのように錯覚して行動することになる。
安藤は、考えろ、考えろ、マクガイバー、と言う。彼は、考え、行動することによって、世の中の流れを押しとどめようとするが、結局は濁流に飲み込まれてしまう。潤也は、濁流の外にあって、流れを変えようとする。そして犬養は、流れを作り出していた側だったはずなのに、おそらくは、いつの間にか自分も流されてしまっていることに気づいたのだろう。
彼らは自分の考えで行動し、発言しているはずだった。しかし、本当にそれは彼らの言葉だったのか。かつて存在した誰かの言葉だったのではないか。本当に彼らは考えて行動しているのか。そして自分は…
おそらくそこに魔王はいる。
